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FILE04:小椋 涼    RYOU OGURA 

「ただいま」
 返事はなかった。しん、とした部屋に彼の声だけが反響する。
「あれー、兄貴〜、いないの?」
 青年は今にも吹き出してしまいそうな衝動を抑え、平静を装っていた。
 今頃兄はさぞ慌てていることだろう。考えると、愉快でたまらない。
 何せ、見覚えのない女の子が、彼の隣に眠っているのだから。
 クソがつくほどにまじめな兄のことだ。狼狽振りが手に取るように浮かび、青年はこみ上げる笑いを噛み殺す。
「兄貴?」
 彼は思い切り、双子の兄がいるだろう寝室のドアを開けた。
「なんだ、いるんじゃん」
 分かりやすく硬直した兄と、それから隣にはふんわりと笑む少女。
 言い訳の言葉すら出てこない兄は放っておいて、青年は少女に声をかける。
「あれ、奈奈ちゃん。もう起きたの?」
「うん。涼くん、ゴメンね。お仕事で疲れてるのに、ゴハンの材料なんて買いにいかせちゃって」
「いいって、いいって。どうせムサイ男の二人暮しなんだから。奈奈ちゃんの手料理が食べれるってだけで、お兄さんは買い物だってどこまでだって行くよ」
「ほんと、ありがと。じゃあ、台所借りるね」
 言うが早いか奈奈は立ち上がり、大きなパジャマの裾を捲る。そしてパタパタと台所へと駆けて行った。
 兄は呆けたように、涼の顔を見上げている。
「ホラ、兄貴も早く着替えた。着替えた」
「なあ、一つ、聞いていいか?」
「何でもどうぞ」
「あの子、誰だ?」
「誰って、奈奈ちゃん」
 兄は痺れを切らし、涼をキッと睨みつける。
「だから、それが誰なのかって聞いてんだよ」
「奈奈ちゃんは、昨日兄貴がお持ち帰りしてきた女の子」
 沈黙が場を支配する。
「……冗談、だよな」
「まさか。冗談言ったってしょうがないでしょ? 僕だって驚いたよ〜。茅野姉と飲み行くって出てった兄貴がべろんべろんに酔って、しかも可愛い女の子と一緒に帰ってくるんだもん」
 ベッドの上でうずくまったまま、兄は頭を抱えている。
 さすがに、いじめすぎたらしい。涼は兄に「本当のこと」を話すことにした。
「大丈夫、兄貴が心配するようなことは何もないから」
 救いを求めるように顔を上げる兄に、再び吹き出しそうになる。
「奈奈ちゃんはべろんべろんに酔った兄貴を送ってきてくれたの。『居酒屋でわたしが絡まれてるの助けてくれたのはいいんだけど、このヒト、その場に倒れちゃって』だってさ。感謝しなよ? 彼女、兄貴の手帳見てウチまでタクシー飛ばしてくれたんだからさ」
「よかった……」
 分かりやすく、兄は体を二つに折って布団の上にうなだれた。が、すぐに上体を上げる。
「いや、よくない。……学校休んじまったのは変わらないんだからな」
「だーかーら、何にも心配することないんだってば。僕のこの格好見て、何か感想は?」
 涼はきっちりとアイロンのかかったスーツを着ていた。
 彼は只今フリーターという名の無職の身。スーツを着る機会などないと言って等しい。
 それだけで兄は事態を把握したらしい。すっくと立ち上がり、涼との間合いを縮める。
「お前、……またオレになりすましたな?」
 兄が「また」と称したのは、涼に前科があるからだ。昔から涼は兄のフリをすることが得意だった。
「ピンポーン。タイヘンだったんだからねー。兄貴起こさないように奈奈ちゃんに協力して貰って、目覚まし時計オフにするの」
「お前、なあ? 自分が何やったかわかってんのか?」
「大丈夫、大丈夫。バレてないから。……茅野姉以外には」
 兄はそれが一番まずいんだといいたげに、無言で涼に歩みよった。
 殴られるのを見越して、すぐに逃げる。単純な兄の行動パターンは既に読めている。
「凛、涼くん、タマゴ、半熟と固ゆで、どっちがいい?」
 キッチンからの奈奈の声に、兄の歩みが止まる。
「僕は半熟がいいな」
 また思考が停止したらしい兄は放っておくことにして、涼はキッチンへと向かった。

 今日は本当にツイている。涼は口元に満面の笑みを浮かべた。
 それに。今日は大きな収穫があった。
(1年A組。倉持命ちゃん、か――)
 手のひらには、まだ彼女の小さな体のぬくもりが残っているようにも思えた。

 ほとぼりが冷めた頃に、また兄になりすまして学校へゆこう。
 兄にとっては迷惑極まりないであろうたくらみを、涼は心に秘めていた。

 

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FILE05:音羽大助   DAISUKE OTOWA 

 引越しが決まった。

 俯いたまま静かに、それでも歯を食いしばって凛兄――兄のように慕ってきた少年が言ったとき。
 大助は少しだけ自分の口元が綻んだことに驚いた。
 凛兄のことは、とても好きだったけれど。
 いつだって、彼の後をついて行ったけれど。
 彼はいつだって、“茅野”を独占していたから。
 彼が彼女の高い位置で結った艶やかなポニーテールをぐいと引っ張って、
「おい、茅野」
 ぶっきらぼうに呼ぶ姿を見るたびに。大助はいつだって、背中がすうっと体温を失ってゆく感覚を強く意識した。
 まだ背の低い――とは言っても、今年で小学2年生になる同級生の中では、高い方だったけれど――大助では、9つも年上の彼女には届かない。
 自分の手で茅野に触れることができる凛兄が、羨ましくてたまらなかった。
 小さな小さな大助にできたのは、凛兄の真似で、彼女のことを呼び捨てにする程度。
 他の人から見れば、大したことではないのだろう。
 けれど、いつもちゃん・君付けをしている大助にとっては、それは特別な行為だった。
 誕生日は4月だった。
 それでも大助は、誕生日が来るのは毎年毎年苦痛で溜まらなかった。
 春が来るたびに。同じ団地の友達は引っ越していった。
 どうして決まって皆いつも4月前に出て行くのか。突然にいなくなるのか。
 まだ幼い大助には分からなかったけれど。
 後々知ることになる。
 その場所がただの団地ではなく、主に若い教師が中心に住む教員住宅で、いなくなった友達は皆、親の新しい勤務先――学校――の校区へ越していったということを。
 県の地方職員である彼らの父母が派遣されたのは、同じ県内に過ぎないことを。
 どちらにせよ子供にとって引越しは、たとえ近い場所であっても大きな事件だったけれど。
 小学生になる直前に、2階のさっちゃん――いつも大助を虐めていたけれど、なんだかんだで仲は良かった――が越していって。
 今年も、4階の凛兄と涼兄がいなくなる。
 淋しいのは本当だった。
 それでも大助には自分の心臓が期待の早鐘を打つことを、止めることはできなかった。
 これからは
 茅野を独り占めできるんだ。

「いなくなっちゃったね」
 言いながら茅野の大きな手のひらを、両手で精一杯包み込むよう握り締めた。
 相変わらず、彼女は彼よりもずっとずっと大きかったけれど。
 しゃがみこんで肩を震わせる彼女は、いつもよりずっとずっと小さく見えた。
「大丈夫だよ。僕はずっといなくならないから。茅野の傍にいるから」
 彼女に届くかどうかも分からなかったけれど。小さな声で、噛み締めるように呟いた。
 茅野は顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま、大助を見てにっこりと笑った。
 大助は手のひらにありったけの力を込めて、きつく目を瞑る。
 ただただ、傍にいることしかできない――彼女を見上げることしかできない――自分がもどかしくてたまらない。

 けれど。
 訊ねることはできなかった。
「茅野も、僕の前からいなくなったりなんかしないよね?」

 しばらくの間。少しだけ淋しかったけれど。
 「2人だけの時間」はくすぐったくて、愛しかった。
 それでも、そんな時間はあまり長くは続かない。

 高校2年生になった茅野が急にその人の名前を出したとき、嫌な予感がした。
「桝村先生がね」
 頬を染めて語る彼女の姿を、大助はこれ以上見ていたくなかった。
 彼と一緒にいても、彼女の瞳ははるか遠く、“そのひと”だけを捉えて離さない。
 凛兄の時のように、いや、それ以上に飲み込めない言葉が喉に溜まっていって。息苦しさは消えることもない。
「茅野」
 小さな不安に突き動かされて、彼女のセーラー服の裾をひっぱった。
「どうしたの?」
 彼女は微笑んでいたけれど。
 紡がれるべき言葉は喉に張り付いたまま、消化することもできずに降り積もる。
 茅野、僕だけを見て。
 僕だけを好きになって。
 生まれた感情に蓋をして、大助は彼女から目を逸らした。
「なんでもない」
 そういうのが、精一杯だった。
 これからも、言葉はどんどんと募っていくことは予想できたけれど。
 自分の心からも目を逸らした。

 なんでもない。
 もう一度、自分に言い聞かせる。
 なんでもない。
 言い続ければ本当になるかもしれない。
 なんでもない。
 ほんとうに? こんなにも、胸の奥が沸騰したまま冷めないのに?

 なんでもない。なんでもない。なんでもない。
 呪文のように呟く。
 彼女の艶やかな髪も、立ち上る温かい香りも、高く心地よいソプラノも。
 何もかも受け入れてくれるかに思える、くしゃくしゃの笑顔も。
 なんでもない。
 忘れてしまえばいい。
 気づかなければいい。

 そうすれば、ずっと彼女の傍にいられる。
 たとえそれが、大助の望んだ関係ではなくても。

 自分の中で想いが緩々と歪められてゆく音を、少年はたしかに聞いていた。

 

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FILE06:日下茅野   KAYANO KUSAKA

 午後9時を回った頃から。
 しきりに腕時計を眺めてしまう自分に気付き、茅野は苦笑を噛み殺した。
 今日は確かに飲みに行くとは言ってきたけれど。
 場所は伝えてこなかった。当然、見つかることもないだろう。
 一緒に飲んでいた男――といっても、彼の方は一滴もアルコールは摂取していなかったけれど――も、茅野のそんな行動には当然気付いているだろう。
 が、特に気にする様子もない。
「お互い明日は早いからな、そろそろお開きにするか?」
「まさか。子供じゃないんだし。……まだ9時だよ? 飲めるだけ飲まなきゃ損じゃない。せっかくの凛のオゴリなのに」
 言うと、凛と呼ばれた青年は眉をしかめて見せる。
「ちょっと待った。……今日はオレの就職祝いだろ?」
「そうだねえ」
「だったら、茅野がおごるのが普通じゃないのか?」
「そぉーかなぁ? ま、いいじゃん。世間の常識なんて糞食らえ〜」
 言いながら、一気にジョッキに入った焼酎を煽る。
 彼女の前には既に10を超えるほどのジョッキが並んでおり。それでも彼女には酔った気配は感じられない。
「凛もちょっとは飲めば〜?」
「……いい。見てるだけで気持ち悪ぃよ」
 実際、凛の顔は少し青ざめて見える。
(まだアルコールは苦手なんだな)
 脳の片隅でそんなことを思いながらも。茅野は飲むことをやめなかった。いつまでも苦手なものから逃げられるほど、社会は甘くない。特にこれからは宴会に出ることも増えるのだから。無理に飲めとは言わないけれど。匂いくらいには慣れておいた方がいいだろう。
 次に飲むものを決めようとメニューを取ったときのことだ。
 入り口の引き戸――立て付けが悪いため大きな軋みの音が響く――が勢い良く開いた。
「やあっと、見つけた……。茅野、またここに来てたの!? 全く、探す僕の身にもなってよね」
 現れた少年は一気にそうまくし立てると、茅野の腕を掴んで立たせようとする。
「ホラホラ、帰るよ。明日入学式でしょ? 教師が遅刻なんてしたら、洒落んなんないんだからね」
 目を白黒させる凛には気付く様子もなく、少年は言葉を続けた。
「ね、大助?」
「何? ……言っとくけど、僕はお金貸さないからね」
「そうじゃなくて。一緒に居るの誰か、わかんない?」
 そこで初めて気付いたように、少年は凛を見た。一気に頬が赤くなり、眉毛がハの字型に下がる。
「ご、ごめんなさい。僕、貴方がいることちっとも見えなくて……って、…………え?」
 大助は彼を見たまま、硬直する。
 みるみる、表情が柔らかくくだけたものになる。
「凛兄?」
「やっと気付いたか、薄情者」
 青年は大助の頭をなでようとしたけれど。座ったままでは届かなかった。
 そこでようやく、流れ落ちた時間の大きさに気付く。
「久しぶり。でっかくなったな、お前。最後に会ったときは、こんな」テーブルの下で手を横に振ってみせる「ちまかったのに」
「さすがにソレ、ちょっと小さすぎるでしょ〜」
「るさい。茅野は飲んでりゃいいんだよ」
「ひどーい、ここまで育ててあげた恩を忘れてー」
「茅野に育てられた覚えはない。これっぽっちもない」
 言い合いをする両者を見つめながら。大助は事態を把握できないようで首を軽くかしげて見せる。
「え? え? どうして、凛兄と飲んでるの? だって今日、大学の後輩で今度ウチの学校に赴任してくる人と飲むって言ってなかったっけ?」
 茅野は大きく瞬いて見せる。どうしてそんなことを聞くんだろう、思いながら。
「そだよ。言ったねえ」
「おいおい、大助。よーく考えてみろ。茅野の言ったことに嘘は一つもない。ってことは、……どういうことか分かるだろ?」
「ええ! ……凛兄が、先、生?」
「そゆこと。似合わないよね、ホント。驚くのも無理ないよ」
 深く頷いてみせる茅野の頭を、「るさい」凛は軽くはたいてみせる。
 2人の間に、時は全く感じなかった。
 不機嫌を装ってはいるものの。目の色に怒りの色は殆どない青年の姿に、大助は少しだけちりちりと胸が焦げる感覚を覚えた。
「本当、なんだ。でも僕、凛兄が茅野と同じ大学だなんて知らなかった」
「まあ、私が4年で凛が1年の時一緒だっただけだけどね〜」
「涼兄は?」
 凛の双子の兄の名を出した途端に。彼の表情がげんなりとしたものに変わった。
 茅野は小さく笑いを漏らしている。
「アイツも着いて来た、教師ではないけどな」眉間に皺を深く刻み言葉を続ける。「金がないんだと。働かないからだろうって言っても聞く耳も持たねえ。……このままずっとコバンザメするつもりらしい、あのバカ」
 凛の愚痴は止まることなく、今までに比べ饒舌になった。
 茅野は大助の腕をぐいと引っ張り、中腰になった彼に耳打ちしてみせる。
「凛たち、どこに住んでると思う? 4Fの……以前アイツらが住んでた場所なんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、あのときの仲間がみんな揃うんだね」
 大助は手を打ってみせる。
「みんな? さつきがいないだろ?」
「古川さんは、僕と同じ学年に居るよ。家は、昔とは違う場所だけど」
 少しだけ。少年の顔色が曇ったことに茅野はいち早く気付いていた。
 けれど、何も言わなかった。
 凛はそんな些細な変化に気付いた様子もなく、浮かんだ疑問を口にする。
「古川さん? さっちゃんとは呼ばないにしろ……随分距離を感じるな」
「……僕、嫌われてるみたいだから、彼女に」
 諦めるように笑む少年に気付くこともなく。凛は考えを巡らせる。
「さつき……ねえ、涼のヤツが聞いたら喜びそうな名前が出てきたな」
 空になったジョッキを逆さにして振ってみせると、大助に非難の眼差しを向けられた。誤魔化すように、茅野は口を開く。
「そうだねえ。涼、さっちゃんのこと好きだったからね」
「え? そうなの?」
「そうなの……って、見え見えだったじゃないか。どんなに宿題溜まってようが、友達に誘われようが、さつきが遊んでって来たら、すぐに相手してやるんだから。俺は面倒ですぐ撒いたけど。あいつ、絶対にさつきを邪険に扱うことなかったし」
「それどころか優先してたよね。……さつきちゃんにはあんまり伝わってなかったみたいだけど」
 ちらりと凛の方に視線をよこす。
 が、男性陣は分かった様子もなく、顔を見合わせていた。
「ヒトのことは、……みんなよくわかるのにね」
 ぽつりと呟き、茅野は机に突っ伏した。
「……ソレはお前だって同じだろ?」
 呟くように吐き出された凛の言葉に、びくりと大助の肩が震える。そんな些細な行動すら、見逃すことはできなかった。
(気付いていても。気付かないふりをすることもあるんだよ)
 思いながら、茅野は目を閉じる。
 いろいろなことに気付かないふりをして。
 何も見えていないふりをして。
 飄々とした自分を演じてみせる。
 たとえば。アルコールが苦手な凛が、文句を言いながらも彼女の晩酌に付き合う理由。
 たとえば。彼女がどんなに遠くの飲み屋に行っても、必ず迎えにくる大助の行動の理由。
 何も知らないふりをして。
 それがどんなに卑怯なことかは知っていたけれど。
 彼女が目を閉じて。そして考えるのは、いつだって1人の男性のことだけである以上。
 気付かないふりをすることしかできなかった。
「さってと。じゃあ、帰りますか」
 席を立ち、伝票をひょいと手にしてみせる。
 大助はすぐに彼女に続いたけれど。凛はその場を動かなかった。
「どしたの? 行くよ?」
「オレ、もうちょっと飲んでくからいい」
 飲めないくせに。
 言葉にはせずに、茅野は笑んでみせる。何も、気付かないふりをして。
「そーお? じゃ、これで払っておいて」
 一万円を机の上に置いた。
「今日はお姉さんの奢り、ってことで」
 そのまま、振り返らずに店の外へと出る。
 おろおろとしながらも、大助も後に続いた。

 彼らが店を去った後に、肩までのウエービーヘアの少女が店内に入って行ったのだけれど。
 それはまた、別の話になる。

 

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FILE07:桝村弘毅   KOUKI MASUMURA 

 少女に、彼女の母親の面影を重ねていた。
 愛しい。
 そう思ったのは確かに嘘ではなかったけれど。
 それは、少女が『彼女』の娘だったから。その可能性は否定できなかった。
「大きくなったら、弘毅さんのお嫁さんになるんだ」
 儚く笑む少女に、弘毅は『彼女』の色だけを正確に読み取る。
「そうだね。それで、僕の子供を生んでくれるかい?」
 そうして、『彼女』の血を自分の血縁に残すことに、男には一切の罪悪感はなかった。

 

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FILE08:古川さつき   SATSUKI FURUKAWA 

 いつだって彼女は必死で駆けていた。
 置いて行かれないように。忘れられないように。
 それでも、輪の中心に居るのはいつだって「茅野ねえ」で。
 悔しかったから、一生懸命に追いかけた。



「リンリン、待って。ね、待ってよ」
 歩くたびにきゅうきゅうと音を出す靴を鳴らし、さつきは必死で前を歩く少年を追いかけた。
 懸命に走っているつもりではあるのだけれど。まだ幼稚園の年長のさつきと、今年で小学校を卒業する予定の少年とは、そもそもコンパスの差が大きすぎる。
 時間が過ぎるにつれ、2人の距離は広がるばかりだった。
 使い込んで光沢を失ったランドセルの背中に、もう一度声を張り上げる。
「ね、置いてかないで。ねえってば、リンリン」
「うっさいなぁ。りんりんりんりん、ヒトの名前を鈴の音みたく呼ぶんじゃねぇ。バカさつき!」
 振り返り、少年はさつきをキッと睨みつけた。
 言葉はキツかったけれど。さつきは内心やったと思った。
 ようやく、距離が縮まったのだから。
「ばかじゃないもん。ばかっていう方がばかなんだもん」
「アホくさ。用事がないんだったら呼ぶなよな」
「あるもん」
「なんだよ」
「さつきと遊ぼ」
 歯茎を見せて、大きく笑ってみせる。
 が、少年はすぐに身を翻してしまった。
「……じゃあな」
 シャツの裾を引っ張って、なんとか彼の歩みを止める。
「どうして、さつきと遊んでくれないの?」
「算数の宿題教えて貰いに、茅野んちに行くから。ガキの相手してる暇なんてねぇんだよ」
「さんす?」
「算数。……あのなぁ、さつき。遊びたいんだったら、大助と遊べばいいじゃないか。同い年だし、オレと遊ぶよりずっと楽しいぞ」
「だって、大ちゃんすぐ泣くんだもん」
「それはさつきがいじめるからだろ」
「いじめてなんかないもん。大ちゃんが勝手に泣くんだもん」
 それに。大助はいつだって「茅野ねえ」にべったりだ。
 さつきが何を言ったって、すぐに「茅野ねえ」のことばかり考える。
 それが気に入らなくて手を出すと、すぐに泣いてしまうのだ。
「だったら、涼に構ってもらえばいいだろ。アイツなら絶対に断らないぞ」
 確かに。少年の双子の弟・涼兄はとても優しい。
 さつきが遊んでと言えば、すぐに構ってくれるだろう。

 だけど。
(さつきはリンリンと遊びたいのに)
 声にすることもできないうちに。
 少年はさつきの小さな手をいとも簡単に振り解き、どんどんと進んで行ってしまった。
「リンリン! ね、リンリン!」
 どんなに声を張り上げても、決して声は届かない。

 はるか遠く。
 セーラー服姿の「茅野ねえ」と少年が睦まじげに話す姿を、さつきはただただ見つめることしかできなかった。

 

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